フェザーンの自治領主ルビンスキーと秘書官ルパート・ケッセルリンクの策略により、イゼルローン要塞から遠く首都星ハイネセンに召喚されたヤン・ウェンリー。そこで彼を待ち受けていたのは、国防委員長ネグロポンティによる、「査問会」という非公式・非公開の精神的な拷問の場でした。
副官フレデリカとも引き離され、単独で査問会に臨むヤン。そこで、様々な質問(というより糾弾)がなされます。普段穏やかな言い回しをするヤンですが、査問会では少なくとも二回、激しい反論をします。その一つが、以下のやりとりでした。
ネグロポンティ「クーデター派の第11艦隊と戦うにあたって、君は全軍の将兵に向かって言ったそうだな。国家の荒廃など、個人の自由と権利に比べたら、取るに足らぬものだと」。「不見識な発言だとは思わないかな」。
ヤン「国家の構成員として個人があるのではなく、主体的な意思をもった個人が集まってできる社会の一つの方便として国家がある以上、どちらが主で、どちらが従であるか、民主社会にとっては、自明の理でしょう」。
ここで学んだのは、基本的な話かもしれませんが、自由という権利は意識して保ち続けなければ気が付かないうちに失われる、という点でした。
主体的な個人が自由を行使できる社会は、現代の日本であればある意味「当たり前」のように思われていますが、実際に実現しているのは直近2世紀あまりのことにすぎません。それまでは、会社や国よりも大きな範囲で、個人に自由はありませんでした。職業選択の自由はありませんし、結婚相手も選べない、居住地を選ぶ自由もない、もちろん国を選ぶ自由もありません。また、現代でも個人が自由を得ているのは民主主義の国だけだと思います。
他方で、人間は気を抜くと自由の価値を忘れ、誰かに隷属したくなるものだと感じています。自由というのは何を判断するにも自己責任がつきまといますから、その責任を自由と共に誰かに引き渡して、気楽に生きていたくなる、そんな風につい考えてしまいます。そして、そういった考え方が、ネグロポンティや彼の主人である評議会議長トリューニヒトにより利用されています。政治や未来を考えるのが面倒になった人の票を集めて、自身の権力を強化しているのです。いわゆる、衆愚政治です。
民主国家が健全なのは、ヤンの言う主体的な個人が比較的多い段階だと思います。半数とは言いませんが、俗にいう2:8の法則(2割の人間が全体を引っ張って組織が成り立つ、という考え方)でいけば、2割程度そういった人材がいれば、成り立つのかなと思います。そして、主体的な個人が極少数派になってしまうと、トリューニヒトのような政治屋が出現し、美辞麗句で国民の自由を取り上げ、ますます健全性が失われていく。自由惑星同盟の表舞台から主体的な個人が消えていく様は、現代の民主国家の未来を暗示しているようで、恐ろしくなります。
同じことは日本社会における会社と従業員の考え方にも当てはまると思います。20世紀の日本社会では(21世紀でもつい最近までは)、終身雇用が当たり前で、従業員は基本的に転職をしませんでした。転職をする人は「普通ではない」という見られ方をしていたと思います。つまり、職業選択の自由は新卒のたった一回で、それ以降は自由はない、それが当たり前、という考え方が幅を利かせていたと言えます。そのように自由が奪われた中で、従業員たる個人は、会社が言うこと、上司が言うことに従わざるを得ません。その代わり、従業員たる個人側は、会社に自身の未来に関する判断をお任せにしていたとも言えます。
21世紀も5分の1が過ぎ、各会社がグローバル競争を生き残る上で、個人の自由を奪う終身雇用は有利ではない(むしろ足枷になっている)という認識が色濃くなってきています。これまで終身雇用を率先していた会社側の方が、従業員に対して「キャリア戦略は自分で立てるもの」=「主体的な個人になれ」と言い出す世の中になってきました。今はまさに、個人が職業選択の自由という素晴らしい権利を再認識する良いチャンスだと思います。
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